sea of the moon
海の上に浮かぶ大きなお月さま
満月をまじまじと眺める。月はただ悠然とそこにあって、まわるに何かを語りかけるわけでもなく、ただ煌々と輝いている。縮尺がどうにもおかしいせいか、クレーターがかなりハッキリと見える。その輝きに負けず、月を見上げるまわるの瞳は爛々と輝いていた。
「わっ」
ぼんやりと月見を楽しむまわるをたしなめるように、突然に強風が吹いた。途端、不意に襲いくる浮遊感。いつのまにか足場になっていた雲が風に割かれて霧散してしまった。あわあわと手で泳いで落下から逃れようとするが、それは杞憂だったようで、身体が重力に倣って落下することはなく、宙に浮いたままだった。そうして霧散した雲の先に視界が開けると、まわるは感嘆のため息をついた。
「すご……」
真下には一面の海が広がっていた。どこからが空で、どこからが海なのか、その境界がもはや曖昧な群青の景色に、まわるは圧倒される。唯一、水面に浮かぶ月明かりの幻想的な輝きだけが、そこが海なのだということをまわるに知らせていた。
その境界を確かめたい。
不意にそんな欲求に駆られて、まわるはすいすいと空を泳ぎ出した。美しいフォームのクロールで、まわるの身体は宙を進む。無意識に染みついた動きのようで、まわるは何となくくすぐったい気持ちになった。もしかして、水泳を習っていたのかもしれない。その疑問の解答は海と空の境界の先にあるのかもしれないし、ないのかもしれない。過去の自分の手がかりの気配に心がそわそわする。想い一つで体に活力がみなぎってきて、ぐんぐんと進んでいく。
「宜候、宜候〜」
聞き覚えのないメロディと聞き覚えのない言葉。泳いでいる場所は空なので、息継ぎの必要もなく、こうして歌も口ずさめてしまう。フォームをクロールから背泳ぎに、優雅に切り替える。やはり水泳を習っていたのだろう。いずれも洗練されていたフォームで、切り替えも実に滑らかにできた。やはりそうだ。まわるが自分の記憶の手がかりを得るときは、いつだって側に音楽があったのだ。
「僕は確かにここにいる〜♪」
知らないはずのことができる不思議。そこに音喜多まわるという人物の面影が確かに宿っている。
(……今感じているこの瞬間が、嘘であるものか)
まわるは心の中で、そう強く思った。まわるの瞳にじんわりと雫が滲む。自身の存在に確かなルーツがあること。そのことが独りぼっちのまわるの心をこんなにも勇気で震わせるのだ。
水泳フォームの変更で見上げる形になった月を見上げる。随分と遠のいた、まん丸のお月様。あんなにもくっきりと見えていたクレーターも朧げで、それがまわるには何となく、いってらっしゃいと微笑んで見送ってくれているように見えた。
今度は振り返らない。まわるは背泳ぎから平泳ぎに泳法を切り替えると、心から湧き出てくる歌に集中した。風に潮が乗って、まわるの鼻腔をほんのりとくすぐった。まわるの先を真っ白な水鳥が滑空していく。その鳥たちの鳴き声がまわるの歌にコーラスのように重なって、あと少しだよ! と、まわるの背中を後押ししてくれているような気がした。
やがて、平泳ぎの伸びで突き出した指先がひんやりとした水気に触れた。
空と海の境界に、まわるはたどり着いたのだった。
シナリオ:yuu
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